五級の記録                                              

 転がりの角度と螺旋の円について

本部道場 七級 永沼 敦


 押忍
   稽古中の約束組み手を行っている居る時、簡単に膝から崩れて行く角度タイミングがあります。其れは何の角度なのかどんな宇宙の法則に当て嵌まるのか考えてみました。
 右組み手立ちで構えたとき、膝の曲がる「く」の時の方向に力を加えても踏ん張られてしまいます。逆に反対方向に力を当然ですが、膝がつっかえ棒になり崩れません。左右方向でも横ずれするだけで崩していると言えません。膝下45°であると斜め方向、斜め後ろ方向に崩れて行きます。
 膝は蝶番関節なので上半身と腿の体重を支えバランスを取っています。下半身が疲れると膝が笑うと言うように膝がガクガクと成ります。それだけ膝は人間が立っているのに重要な役割を担っています。蝶番関節であるので実際の蝶番も斜め方向が一番脆く、壊れ易いように思います。



 膝の蝶番関節が落ちる45°に力が入るように加速して遣ると膝から転げます。又、膝の裏側から力を与えても同じ事が言えます。
 実験を遣って分かった事は、小手投げで投げる時、膝から落ちるように小手に誘いを入れ螺旋の円に相手の体を乗せます。稽古して行く内に螺旋の円を描く時、転がりやすい角度がある事に気付きます。
 技を掛けるとき、その人は近づいていようが離れていようが自分の中心軸のぶれない中心力さえ持っていれば、術中に嵌っていく気がします。膝の45°方向は地に向かって45°ですが、其れは手や肘も45°方向に螺旋を描き、それと同調して居る膝も45°方向、地に向かって螺旋を描いているのではないかと思います。其の代わり、中心力を持つ丹田は動いては成らず、動いて仕舞うと中心力が無くなって螺旋の円から逸脱してして仕舞います。



 中心軸は出来るだけ動かずに回転のみ許され、其れは練りの鍛錬に因って培われます。
 極めの際でも中心軸は下に沈むだけで、左右にぶれては自分も中心力を失った状態にあるので極めが甘くなります。
 四方投げ、小手投げ、小手返し、天地投げ等は必ず螺旋を描き、その螺旋は等速度ではなく加速していきます。その螺旋上に乗って仕舞うと人は倒れ易く、力ではない宇宙の法則に当て嵌まるのではないかと思います。
 その螺旋は何なのか自分なりに考えると円A・B・Cと言う大きさの違う円があります。螺旋の円は加速し、速度が段々大きく成って行きます。



 円一つ一つを中心から見て一回転する速度は同じだとしても、その円上詰まり、螺旋上では速度は劇的に違い、角速度は同じです。
 誘いは螺旋上に乗せるための前段階であり、誘いが1ミリや0.1ミリでも綺麗に螺旋を描ければ、自ずと自分の周りに描く螺旋は小さくて済みます。所が、よく失敗の例として、自分が遣るのが螺旋を大きく描き過ぎて仕舞ったときです。螺旋は自分の中心軸を中心に外側に行けば行くほど、大きく描かなければ成りません。最初大きく描いてしまったために螺旋は、拡散ではなく、収束してしまい、本来無限の力を生むはずの拡散条件から外れ、力はゼロに近くなり、相手は全然動かなくなります。
 一気に弾けるように転がってしまうこの作用は拡散の条件を満たした時であり、この辺に秘密があるような気がします。
 館長が技を掛けるとき、立体的に地面が無いようにして螺旋上に乗せることが出来るので体が傾いていても関係なく、何時までも際限なく転がっていくような感じさえします。
 又、体が斜めでも術を掛ける事が出来るのは中心力が全然ぶれない事であり、中心力は傾斜の面に向かって取れており、斜めの地面に転がる筈が其処の場所は未だ空間なので本当の地面に突き当たるまで拡散が拡がります。未だ普通に地面で投げられた方が直ぐに地面に当たるので止まって仕舞いますが、斜め空間に向かって投げられると仮想の中心力が仮の斜め地面を向いているので本当の地面が来るまで加速されダメージはもっと大きくなる気がします。
 頭でいくら考えても、絶妙な角度やタイミング、そして螺旋上に乗せ膝を45°の角度から落とす事等は中々難しく、実際に自分には直ぐには出来るものでもありません。そう考えるとその角度やタイミングを何回も反復で稽古して体に覚え込ませるようにしないと実践では役に立ちません。反復し、繰り返し体で覚えられるように稽古に励みたいと思います。

                                                          押忍

七級の記録   

 仮想の中心力について

本部道場 八級 永沼 敦


 押忍
 武道空手にとって中心軸を持ち、意識を高めて中心力をつけるように努力する事は上達する事に繋がると思います。
 丹田に力を入れる事によって腰が安定し、立っている時に膝がゆったりと曲がりを持ち、やや前傾になる姿勢、それは古来から日本人が腰の位置が低く足を上げずに歩くような風習と似ています。そう言う意味でも中心力を持った姿勢は、日本人の骨格に合った理にかなった形と言えます。
 丹田という器官はありませんが、臍下の腹部に力を入れる事が外国人に説明しても分からず、日本人だけに与えられた知恵なのかも知れません。又、広辞苑第4版を見ると『健康と勇気を得るところ』と有ります。まるで武道に沿った考え方だと理解する事が出来ますが、どこからどのようにして健康と勇気を得る事が出来るか中々分かりません。日本人の着物や武道の道着は、丹田に力を入れ易い構造になっていると思います。準備体操で遣るバランスコントロール運動のゴムも丁度丹田付近に巻きます。そうする事により腰が安定し、動きがスムーズになるのは中心力を高めて居るからに他なりません。
 自由組み手では中心力が狂った時に倒れやすい瞬間が何度も有ります。中心力を失うという事は力の作用点が全て一点に集まり、その場所が一瞬ずれているので力を失います。仮想の中心力の理論を用いると力の大きさに関係なく、距離のバランスや向きを作用する事により、相手の中心力を失った瞬間に攻撃すれば、力を使わずして相手の力を利用しコントロールする事で可能になるのではないかと思います。
 自分が攻撃する際は、反対に頭部の位置を変えないように自分の中心力が崩れない状態で突き蹴り、捌き崩しを行う必要があります。中心力を失った瞬間、相手に技を返す隙を作る瞬間でもあると思います。
 足の親指の母指に力を入れる事で丹田に力を入れるような状態を作る事が出来ます。その形は自然に前傾になり、同側同調の歩き方をすると姿勢が楽に保てます。同側同調は中心力を高めるために理に適った動き方であり、頭も上下しません。相手に分かり難い動きを考えると頭や肩のぶれは致命的です。又、中心力を保った状態なら膝にゆとりが出来ているので膝から始動を始める空手道の動きも分かり難くする事が出来ると思います。中心力を高める事により、攻撃も防御も上達する事が出来るのではと思います。
 
  図1:

立ち姿勢

図2−@:

前蹴り×

 

図2−A:

前蹴り○

 

 図1のように立ち姿勢で◎は、仮想の中心力の位置です。臍のしたの丹田には中心力は無く、頭の下方部にあると思います。詰まり、仮想の中心力は頭が体の中で一番重いのでその頭が一番安定する位置が仮想の中心力ある位置ではないかと思います。
 図2は前蹴りの絵ですが、本来なら平面的ではなく立体的に半身の捻りが加わります。今回は平面的に考えました。×の前蹴りだと頭の支えが無く中心力が崩れた状態であり、○の場合だと頭が体の中心にあるので力が入るし、頭の移動分、加速するので速度も速いです。
 常日頃から仮想の中心力を意識して生活すると腰への負担が軽減されて居ることに気付きます。例えば母指に力を入れて階段を上ると前傾状態にあるので勝手に足が出てくるようになり、体のバランスが良く仮想の中心力が取れています。
 何年か前に踵の無いスリッパを主婦が考案して痩せるスリッパとして売り出されました。此は仮想の中心力で言う母指に力を入れる状態を擬似的に作り出していると云えます。中心力を高める行為にも繋がるので、自然と体や骨格が調整されている結果があります。千鳥足になるように重い足を踵を上げる事で、足かせを取って軽くなる感じがします。
 日本人の武道や着物を着た茶道・華道においては摺り足、忍び足で歩きます。そのような歩き方は頭がぶれることが無いので中心力を持った歩き方であり、意外と素早く動くことが出来ます。忍者のように足を上げず、「さっさっ」と小走りになると足音もしないで道側同調に自然になっていきます。中心力を高めるには普段からの修行が重要です。中心力を高める事に意識を向けると自然に精神も落ち着いてくるから不思議です。
 中心力=求心力と館長が仰るように中心力を持ってくれば求心力もついてくるようにな気がします。聖士會館本部が人が良く集まるのは、中心力・求心力を持った所だからに他なりません。組み手でも求心力を持って居るなら、相手を呼び込み自分の中心力を崩さずして技を掛ける状態に持って行ける気がします。
 未だ、今回自分の丹田にある中心力がどのように動いているか、その中心力も何を中心にして回っているか研究不足ですが、次への課題にしたいと思います。
押忍
 
                                                          押忍

八級の記録                                                    

 基本稽古について

本部道場 九級 永沼 敦


 押忍
 
聖士會舘の空手道・武道空手と云う物は何故基本をもう一度考えて見ました。基本技は、地味で稽古の中でも単調で辛い物かもしれません。生涯に於いて基本を続ける事で見えない物を感じ、そして見る事が出来る様に成るのではと基本稽古を続ける事で思わずには居られません。基本技をこなしていて最近気付いた事が人に因り癖が有る事です。基本なのだから、本来同じ様に遣るべきですが、体の柔軟性、スピード、タイミングに至るまで個人に因って全く違います。柔軟性の高い人は回し蹴りなどの円運動を行う時、鞭の様に体や手足が撓るので到達時間が余計に掛かって仕舞います。でも、此処で気を付けなければならないのが、同じ違うスピードで到達時間が同じという事は柔軟性のある蹴りの方が速いという事に成ります。必然的に体の柔軟性が必要で理想的な蹴りには鞭の様に撓る蹴りの方が破壊力も上です。
 基本から聖士會館空手道を考えて行くと一撃必殺のような極意が基本技に含まれているような気がします。振りのない直線的な突きと云うのは見た目に派手さがありませんが、速く正確に突く事が出来ます。常に相手の急所を目掛けて突くので一撃必殺であると云えます。スポーツでは判定やルールに因って守られているので禁じ手とみなさるし、基本があっても其れは真実では無く、自分の命を守るとか家族や友人を守ると云う意味ではあまり意味の無い物かもしれません。例えば、ムエタイなら構え自体正面立ちで隙だらけ、柔道なら捕まれる前に打撃技で攻撃すれば武道には太刀打ち出来ないと云えます。其れだけに何時不測の事態が自分に降り懸かるか分からないので日々の基本稽古で油断を無くし、精神を鍛え、一撃必殺に懸ける心構えが必要だと思います。
 今回は未熟にも基本技の足技について細かく考えて行きたいと思います。足技は立ち位置を変えて全てで二十二足あります。
 前蹴上げ…前屈立ちから帯の真横を掴み頭の位置をずらさずにかつ上げる足は自分の中心線より内側に入らないように注意して最後は前足底で自分の胸に突くように上げます。
 内回し…不動立ちから帯の真横を掴み同側同調を意識して自分の中心より内から外に向かって足を回します。自分の前の攻撃を払う事を目的としています。
 外回し…内回しの反対回しですが、注意点は足の内側で攻撃を払うようにします。
 金蹴り…不動立ちから帯の真横を掴み同側同調の基本的な蹴りでもあり、相手の金的、若しくは中段の鳩尾にも応用出来る蹴りです。膝から出るようにし、臑、足、最後に前足が鞭の様に突ければ理想の蹴りに近付きます。又、内八字立ちからは顔面カバーと金的カバーを忘れないようにします。
 上段前蹴り…不動立ちから帯の真横を掴み同側同調を意識して金蹴り同様鞭のような蹴りを目指します。この時足の招きは直線的であり、最後は自分の中心軸と足先が交差しないように気を付けます。又、内八字立ちからは顔面カバーと蹴り足と同側の手が同側同調させる事により破壊力を増させます。
 膝蹴り…不動立ちから帯の真横を掴み同側同調を意識して膝を相手の顔面に向かって打ち付けるようにします。又、内八字立ちから相手の髪の毛を手を交差して掴み其の儘膝に打ち付けます。
 下段回し蹴り…不動立ちから帯の前を掴み、蹴る側の足は体の前に物が有る様に意識し踏み越えるようにして打ち下ろします。鞭のような蹴りを意識して膝から出て最後に臑で相手にインパクトするように弾けるような蹴りが理想です。又、内八字立ちからは顔面カバーと蹴り側の同側同調の手はインパクトの位置まで持って行き、決して行き過ぎません。何故なら力が逃げないようにする為です。
 上段回し蹴り…不動立ちから帯の前を掴み、下段回し蹴り同様に蹴り側の足は足を開き、踵は尻の割れ目を上り限界まで来たら、膝を大きく回して行き、最後は臑、足首、前足底を意識して鞭のように浴びせます。蹴りは最後インパクトより遠くに足が行くように極めを心掛けます。内八字立ちからは顔面カバーと同側同調の手で極めを強めます。
 上段内回し蹴り…不動立ちから帯の前を掴み、上段回し蹴り反対回しでありますが、当たる面は踵であり、相手の首を刈るように蹴るのが理想です。内八字立ちからは顔面カバーと同側側の手はは足が下側に速く降りるように下に降ります。
 横蹴上げ…帯の前を掴み、体を横に向け自分の中心軸から内側に来ないように注意して真横に上げます。この時、足は踵が上側に来るようにして体は横向きの儘で戻る時に始めて正面を向く事が出来れば横蹴上げが完成します。
 関節蹴り…横蹴上げ同様に体を横に向けてから蹴り足を反対側の膝、そして足を一度上に上げて相手の腿の骨を折るように打ち下ろします。内八字立ちからは金的カバーと顔面カバーを忘れては行けません。
 上段横蹴り…関節蹴りのように反対側の膝に蹴り足を持って行くのは同じで其処から足刀に因って真横に蹴りを出します。内八字立ちからは同側同調に因り、蹴り足と並行に拳又は開手、反対側の手も同じ様に出して行来ます。
 上段後ろ蹴り…帯の前を掴み、馬や牛が後に居る人間を蹴るかの如く、足の踵で蹴ります。この時、上段前蹴り同様に蹴り足と打撃点が交差しないように注意します。自分の体は起こしたまま後に目があるかのように蹴り上げるのが理想です。内八字立ちからは両手を顔面ブロックして隙を防ぎ、次の動作に直ぐに移れる態勢を作ります。
 矢張り基本稽古に因って、何万回、何十万回遣って体に覚えさせて行くと云うのを忘れてはならないと思います。単調な稽古の中から益々の技術の向上と武道性を見出して行きたいです

                                                          押忍

九級の記録                                                    

 

 

 

 

 

2004.9.3撮影

 基本稽古について

本部道場 十級 永沼 敦

 押忍
  聖士會館空手道の基本技は手技足技含めて54手あります。何故、武道空手である聖士會館がその54手の基本技を重視するか考えてみました。聖士會館では基本が無ければ先を学んでも取って付けた刃のように脆く壊れ易いものと云われます。確かに算数を遣るのにも足し算、かけ算と云うようにステップアップして行きます。武道空手の場合その様な理由だけでもない気がします。
  「単調な基本稽古の中に強くなる極意が有る。」と基本技の一文に有るようにその一つ一つの技は長年研究し尽くされ変化を重ね今のような形が出来ました。と云うのは正拳中段突き一つをとっても脇を締めるように中心軸を境に延々と突きます。遣ってみて分かりましたが人差し指の拳頭を同じ場所に寸分違わず持っていくのは至難の技です。算数のかけ算は一回覚えて仕舞えば同じ事を繰り返しですが正拳突きを同じように突くというんは神業に近いのかもしれません。ロボットコントロールのように同じ場所に戻ってきては物を掴み、そして決まった場所に行って物を放す。コンマ何ミクロンの世界ですら出来ない領域も有るのにその領域まで達せられる可能性が人間にはあると思います。
 「基本は、何万回、何十万回遣って行く内に叩き方、蹴り方、動き方、間合いの取り方、そう言うものを覚えて来る。それは単調な稽古だ。毎日同じ事を遣るのだから。」の言一文のように機械とは違って遣れば遣るほど熟練が増します。1年通して稽古を遣って正拳中段突きをどれ位の数を突けるでしょうか?多分一回の稽古で50発突いたとしても週二回稽古を遣ったとして一年で約5000発位しか突けません。それだけ5000分の1と何十万分の1の拳では遙かに重みが違います。此からはそういう意味も考えて基本稽古に励みたいと思います。更に一つの拳を半分の力で打ち続けるのと1.5倍の力で打ち続けるのではそれだけで3倍違うと言う事です。だから拳を一回打つのに考える時と考えない時がありますがそのような意味では大きく自分に対する成長度と熟練度は違います。
 基本に返り、今回は基本技の手技で注意すべき点を書いて行きたいと思います。
 正拳中段突き…内八字立ちからの全ての拳の基本であり、鏡に向かって人差し指の拳頭が両手拳を合わせて鏡の前に持って来た時と同じ場所に戻るように脇を締めて最後に練を入れます。対面の相手の溝落ちに入るような拳です。
 正拳上段突き…内八字立ちで注意点は正拳中段突きと同じです。突く場所は相手の額をめがけて突くというのが違いです。
 正拳下段突き…内八字立ちで注意点は正拳中段突きと同じで突く場所は相手の金的をめがけて突くというのが違いです。
 正拳顎打ち…内八字立ちの構えから両手は拳の内が顔側を向き、相手の顎に向かって練りながら突きます。注意点は拳を出す方の反対側の手は後ろに持って行った反動で拳を前に出す事です。
 裏拳回し打ち…内八字立ちの構えから牽制をし、突く側の腕と牽制している腕を身体に巻き付けるように後ろに持って行き、鞭のように腕をしならせて何かを放るような感じで自然に突きを出し、最後に拳を返します。
 裏拳正面打ち…腕を左右自分の胸の前でくっつけて練りながら突きを出し最後は拳に返します。その時同測同調を忘れないで拳を出します。
 裏拳左右打ちは…内八字立ちから自分の前、喉元付近に拳頭が合わさるようし、自分の正面から反対側上方(右なら左前方)に拳を持って行きその儘振り下ろし裏拳正面打ちのように最後拳を返します。
 裏拳脾臓打ち…身体の正面に棒を持ってかの如く内八字に立ち、突く方の拳を上にして自分の正面から反対側(右なら左前方)に拳を出しその儘横に突きます。この時、裏拳正面打ちのように最後拳を返します。
 裏拳下突き…騎馬立ちから腰を落とし、拳は腰の下側から出てくるように相手の金的をめがけて突きます。引き手は拳をひっくり返して練りだして来た位置に戻します。
 手刀顔面打ち…内八字立ちで手刀にて牽制し、突く方の手刀を真後ろに持っていき相手の顔面を目掛けて風邪を切るように打ち込みます。最後は手刀で顔面の前の栓を抜くように手刀を押し上げます。
 手刀内打ち…内八字立ちで手刀の牽制から突く方の手刀を耳の裏まで持っていき真上に垂直に上げ、その儘自分の顔面の正面に手を返します。
 手刀鎖骨打ち…内八字立ちで突く方の手刀と牽制の手を肩上部まで持って行きその儘相手の鎖骨に上から振り下ろします。
 手刀鎖骨打ち込み…内八字立ちで牽制をし、乳首の横の引き手を相手の鎖骨に沿って正面から打ち込みます。
 
手刀脾臓打ち…内八字立ちで牽制の手を金的カバーの位置まで持っていきます。そして手刀顔面打ちのように金的に向かって手刀の栓抜きで蓋を開けるイメージを持ちます。
 肘中段当て…騎馬立ちから牽制をし、肘中段当ての肘を斜めに上に向け、相手の顎に当てるようにします。
 肘上上げ打ち…騎馬立ちから牽制をし、相手の懐に入り、真上に相手の顎に肘が当たるようにします。
 肘上降ろし打ち…騎馬立ちから牽制をし、打ち下ろしの腕を頭の上に上げ、その儘股の間に肘が来るようにします。
 正拳上段受け…内八字立ちで十字受けから肘肘を擦り合わせるように正拳上宇段突きを上方へ逃がすように受けます。
 正拳中段外受け…内八字立ちで牽制をし、受け側の拳は耳の裏まで持って行き、其処から相手の正拳中段突きを外側から払います。
 正拳中段内受け…内八字立ちで受け側の手で牽制をしている拳を脇の下まで持って行き、自分の前に直方体を仮定してその場所から一番遠い対角線上の頂角から円軌道を描きながら正拳中段突きを内から外に受けます。
 正拳下段払い…内八字立ちから金的カバーをし、受け側の手は反対側の耳の裏に拳を持って行き正拳下段突きや前蹴りを内から外に払います。
 正拳中段受け下段払い…前述の二つの受け払いを同時に行う技であり、同時に始まり、速度を調整して両方が同時に受けるポイントの点に到達するように受けます。
 手技23手を何回も繰り返し、基本技を掘り下げて行きたいと思います。「武の道に於いては、千日を初心とし、万日の稽古を以て極めとする。」の一文のように日々の稽古、鍛錬の場として一回一回の突き蹴りを大切にし精進して行きたいです。
                                                          押忍

十級の記録                                                    

 

 

 

 

2004.5.21撮影

 聖士會館の空手を通して

無級 永沼 敦

 押忍
 
普段の生活の中で仕事をし食事をし、床に就く。そんな当たり前の生活の中から価値観が変わり目に見えない物を信じたり祈ったりする事など武道を始めた事でより思うようになりました。
 物事や事態の中心力を考えたり礼儀作法と言う点においても他人がどのように考え、どんな気遣いをしたら喜んで戴けるか少しずつでも考え分かるようになって来たと思います。
 良く武道では心技体と云う言葉を言いますがスポーツ空手や一般のスポーツは反対対極の「体技心」という言葉が当て嵌まるような気がし、若い時にしか行えない運動です。それは浅く、人間的に掘り下げる事はあまりせず人を負かす事でしか満足感を得られない物です。心や気持ちという物
は空手道を遣る上でも生活する上でも際限を持たず精神や意識は計る事が出来ないと云うように見えない物や計り知れない物はその意味で無限大であると思えます。
 空手道が武道である限りは謙虚で礼節を持ち敬いの心が大切です。家族や自分の身を守る為であり、一生を通じて心をそして自分自身を成長させ精進して行くのが真実の空手道であると思います。武道を精進すると云う心、それは礼節を心掛ける事であり、素直に神に想いを寄せ行動をすると云う事です。だから自分が迷う時、又、違う方向に向かった時でも神に想いを寄せれば考え直し正す事が出来ると思うのです。そのような瞬間は一瞬であり、その一瞬で判断する事が出来れば見方や考え方はふっと変わるかもしれません。
 聖士會館空手道の理論という面においても武道的かつ独創的な考え方は尊敬すべきで同調しています。例えば正に同側同調は日本人古来の歩き方であり、江戸時代まで両手両足を同時に動かすこの動きで歩いていたと聞きます。それが何故、形を残していないか考えると西洋文化の影響と明治維新後の統治の中で武士を排除する動きは民を思うがままに操るという方法を「まず歩き方」という具合に生活レベルからコントロールをして行ったからに違いありません。同側同調について動物は基本的には同側同調の動きではなく前後脚を閉じたり開いたりして走ります。しかし動物が歩く時は同側同調になっています。人類にはそんな歩き方をすると言うのは日本人以外に聞いたことがありません。もしかすると日本人特有の骨格が象徴する動きであり自然体のまま赤ちゃんを育てると無意識に同側同調の動きをするのかも知れません。
 稽古におけるバラコン運動や犬歩き、胎児運動、逆立ちは理に叶った準備運動であり続けて入れば自分の健康状態すら知る事が出来る指標にもなります。体調が良くない時、邪食をした時等、閉塞立ちが出来なかったり、犬歩きは腰が必要以上に上がります。また、逆立ちは遣り続ける事でバランスが良くなり筋力トレーニングで鍛えた体とは違い自分の体を支える筋力を作れます。筋力トレーニングを遣る人でも自分より重いバーベルを持つ事ができても自分の体重を支える事が出来ない点から見ても一目瞭然といえるでしょう。
 食生活においても「食養」と云う見地を増やす事が出来ました。食物は体を作っているので、その日その日に食する物が自分の体の一部であると気付きます。体の硬い私は酢の物を多く摂ろうとか魚介類は筋を硬くするとか分かりました。小さい時からの食生活というのは自分の体を根源を作っていると言うのにも気付きました。無論、食肉や乳製品は体を重くし、武道を志す上でも健康を目指す上でも腐敗と共に遣ってくる老化は防ぐ事ができないでしょう。
 そして矢張り食欲という身近にある欲を捨てる事により私達の目指す武道、武術に少しでも近づく事が出来るのではと思います。そのような目標の下の精進であり、食べ過ぎ、飲みすぎであったり些細な欲を捨てきれないのでそれが私の当面の課題です。
 稽古の中で基本を大事にし白帯である今こそが全てと仰われるように基本が失ければ其の上に積み重なるような経験も無いものになってしまいます。
 初めての昇級審査という区切りを受けるに際し、自分にとっては基本が全てであり、基本を積み重ねる事で何時でも原点に戻れるような基礎を築きたいと思っています。
 現代人にとって空手をスポーツと考えるのが一般的ですが心から平和を願い、本当の意味で武道に励む事が出来るのはスポーツ空手では有り得ません。此れから未来に繋ぐ為にも無双原理のような自然と一体調和した考え方や礼儀作法を益々追求して行きたいと思っています。
                                                          押忍

 

更新日2008/07/13       Copyright SANKICHI Established 2005.9.24 All rights reserved.